昭和58年09月01日 月次祭
尾張名古屋は城でもつ、昔の詩の文句です。私は今出がけにそのこと頂いてなんかどのことかと、尾張名古屋は城で持つ、あぁこりゃ合ら教会はなんでもってるのかと、神様から問われている様に思いました。皆さん合楽教会はなんでもってると思いますか。合楽で言われる合楽理念の実験実証によると思います。是は私がおかげを受けておる様子です。おかげを受けると言う事は本当にまぁ、今日只今の様な健康状態ですけれども。
目は眼鏡を取ったらもう殆ど見えませんけれども、まぁ今朝5時隅の方でも眼鏡を掛ければ、はっきりと鮮明に見ることが出来る。今迄自由に使わせて頂いておった目の有難さよりも、いま薄ぼんやりしてきた事が非常に有り難い。眼鏡をかける時にもう、掛ける度に外す度にお礼を言わにゃおれない。眼鏡に対するお礼なども、こうした目が悪くなって、こういう有り難さがこの中にあったんだということを気付かせて頂いております。私は合楽理念を実験実証すると言う事は、そういう事だとおもうんです。
どういう場合であっても、それがいよいよそれを今までよりも有り難く受け止められる。お礼が言えれるそういう心の状態が、ま、育って行くわけ、これは限りなく育っていく事でしょうが。それを実験実証していく日々が、こよない有り難い信心生活になってくる。先だってから氷雪門と言う事を頂いたんですけれども、これは氷の雪の門という、北海道に蟹の料理屋さんで、大変有名なお店だそうです。
ひょうは氷、せつは雪、いわば氷雪門、これは字が示すとおりになるほど、氷の様なそれこそ雪の様な、寒い冷たいと言うところも通り抜けて入った門、はぁ私しが今日までおかげを頂いてまいりました様々な事柄が、この氷雪門であったなと。と思わせて頂いたらお前のは、ひょう氷という字のところを通り抜けたところだと。まぁひとつ雪の所が残っとると言う意味の事を頂くんです。それから2,3日してからでしたけれども、めを瞑ったら又あのう氷雪門のことを頂いて。
まぁ今日からそれに入門、氷雪門をくぐったと、言う様な事を頂いて氷雪門をくぐるという一つの難関を突破したんだが、突破した先はどういう世界でなからなければならんのでしょうか。氷雪門をくぐり抜けた向こうの世界、まぁいわざ合楽世界がある訳なんでしょうけれども。合楽世界とはいったいどういう世界でしょうかと、お伺いをさせて頂きましたら。有り難き、勿体なき、畏れおおきじゃと仰います。昔から神様が一番お喜びになるのは、有難き、勿体なき、畏れおおきのみきを奉る事だと。
四神様が教えられたと言う事ですが、それは知ってはおりましたけども、知ったと自分のものとして頂く事は出来ませんでしたが。思うてみれば見る程に、最近の私しはどこを切っても有り難い、何処を切っても勿体無いどこを切っても有難き畏れ多き、それをどれかが出て来る。はぁあぁこれを教祖様は、はぁ氷雪門の中身と言うのはこれだなと。分らしてもらったが果して皆さんの場合もです、皆さんのいわゆる心の中というものがいつでも、有難き。勿体無き、恐れおおきのどれかが。
有り難いときもありゃ、勿体いないな、ほんと畏れ多いことだと思う事もあります。そのいずれかがなからなければならない。私は思うのですけれども、私の様な、まぁお粗末な人間が、ここまで信心によってお育てを頂かしてもらった。そしてここまでおかげを被ってきておる。これは教祖様ではないですけれども、この方の事を生神生神というが、みんなもこの通りの、おかげが受けられると仰せられる様に、ここまでは私しでさえ頂いておるのであるから。皆さんの場合にはその気になれば誰でも頂けれる。
合楽教会のごひれいをうんぬんといわれますが。ほんとに全国にある沢山の、お教会が合楽教会だけが名前ばごひれいを頂いたら、もっと金光教が生き生きとしてくるであろう。私が頂けたのだからそこで合楽に御縁を頂かれる、皆さんのひとりひとりが、私しが頂いておるおかげを頂いていただきたい。それには皆さんここはいまこそ氷の世界であろうか、雪の世界であろうかというところを、ただ氷・雪にとどまらずその事を今迄よりも有り難く思えれるこころ、正体が育っていかなければいけません。
はぁあこれだけしんじんするのに、こんな難儀な思いをしてと言うのでは、もう信心は留まっておる。そこからの信心を目指すと言う事が、次の信心の手掛りをおることでありますが。合楽ではそこの所を理念によっていろんな角度から、まぁ説かれております。こういう時にはこういう心掛けたとえば、我が身は神徳の中に生かされてあり、我が身は神徳の中に生かされてあるという実感が、有難きになり、畏れ多きになり、勿体なきになる。だからどんな場合であっても御神徳の中に生かされてある。
そこまでは皆んなが分るんですけれども、それを実感として頂けた時に有り難き、勿体なき、畏れ多きが出て来るのです。我が身は神徳の中に生かされてある。そういうなら実感として分るために、教祖様は我情を離れ我欲をはなれと教えられる。我情我欲を離れて真のおお道を開け、いくら我が身は神徳の中に生かされてある。そこでなら我情を取ろう欲を取ろうというてもなかなかでございますけれども、それこそいつの間にか我情が取れいつのまにか我欲が取れる。
これは合楽理念の芯でもあります、成り行きを尊び大切にすると言う様な。そういう生き方を、自分の心情にしていく。成り行きそのものを天地金乃神様の私しに対する、求めたもう信心であり修行であると頂いて。頂くそれを信ずる事です。それを信ずる所に、今例えここに氷の様な雪の様な冷たい問題が例えばあったにせよ、それを神愛として受ける心が生まれて参ります。熊本の富永先生の所で、私しの(御縁中の? )、椛目時代でしたが御夫婦でお参りになって、それこそ布教に出たけれど人は助からん。
もうそれこそ6畳一間の、まぁ夏は西日が当ってもう暑くてたまらんと言う様な、小さいお家を借っておられたが、それでもやはり辛抱していたところが、ある日突然この家を空けてくれとこう、大家から言われて来た。あまり突然な事でそれこそ、まぁどうしていいやらわからん時に初めて椛目の金光様にお参りしてお尋ねしてこう、というて始めてお参りして夫婦でお参りになったのが始めてだったです。本当に大家の仕打ちに、それこそ泣くにも泣かれんと、言う様な、ご夫婦の状態ですした。
でそのことを神様にお取次ぎさして頂きましたら、雪の生体と申しますかね、雪の一片を顕微鏡で眺めると、丁度幾何学模様の様な、ひとつのまぁ図案なにんかにあります。そういう模様をしておとるんだそうです。それを頂いて、はぁあこれは冷たいの、つれないのと言うたり思うたりしておるけれども。是は天地の親神様の切実な神様のお心だなと。雪は冷たいようにあるけれども。
よくよくそれを見てみると、それはこんなにも手の込んだ幾何学模様の様な、神様の微妙な働きがあってのことだと、私しは悟りましたからそのことを申しました。もう丁度12月の20日過ぎでした。思いが変わりました。今までは連れない冷たい仕打ちだと思うておった、それに対して本当にお礼を申し上げねばならない様な、神様はもっと素晴らしいお広前を下さろうとしておる働きだというふうに分られて、お礼を申し上げる気に夫婦でなられて、それから間もなく一人の信者がお参りをして来て。
大変おかげを受けてその家を、私しに探さして下さいという。そして一週間余りの間に現在のお広前を、もう本当に小さいけれども、私しも一遍お邪魔した事があるですが。小さいこじんまりとしたお家じゃあるけれども、お教会の為に立てた様な家が。しかもそこの町の繁華街からちょっとぐらい山の方へ入った所です。環境も大変いいお家が、はぁ住み替える事が出来て、その時の翌年の正月にお礼参拝されて、布教に出て初めて正月らしいお祭りを仕えさせて頂いたと言うて、まぁ喜ばれる事がございましたがね。
つれないでもない冷たいでもない、神様が次のより有り難いおかげお下さろうとする働きであった。そこには思いがどうしてつれないとか冷たいとかではなくて、神様がこうしておかげを下さろうとする働きであると悟れた時に、次のおかげが待受けておった訳ですね。いつでしたか御理解に「月と雪 なさけかわして しきまつは」という御理解を覚えておられるでしょう。
「月と雪 なさけかわして しきまつは」。煌々とお月様が照っておる、下はまぁ白一色の銀世界である。まぁいわば何でもない雪景色ですけれども、そこには雪と月とがなさけを交しているかのように、一つの一体感ですね、月のおかげで雪のおかげで、この美しいそれをこじんまりとした、まぁ茶庭なんかに見るあの敷松葉を敷ます、その風情をまぁ唄った句だったと思いますが、私しはこれをね、雪と月との情交、私共というなら難儀と思うておった。
その難儀とめぐりの取り払いを頂かにゃならん、めぐりがあるから苦しい、めぐりはめっぐりめぐりめぐりはとおもうておったそのめぐりと仲良うする信心だと、いわゆる神と仲良うすると言う事はめぐりと仲良うすること。このめぐりのおかげでこの修行ができます。今まで分らなかった悟れなかった世界が、この難儀と思うておっためぐりとおもうておったおかげで、開けて参りましたとお礼が言えれる正体を。私は月と雪との情け交してと言うふうに頂いたんですけれども。
皆さんが持っておられるひとつの難儀性というものがね、本当に神愛でと実感として悟れることのために、どうでも合楽理念の実験をなさらなければ、合楽に御縁を頂いて何が一番有り難いか。合楽を支えておるかと言うと合楽理念による、私しの実験実証が今日の合楽のごひれいだと思うんです。ですからそれは大変な、まぁ難しい事かと言うと、そうではないそりゃ難しいことなんですけれども、それをみやすう誰でも、それを頂いた行けれる手立てが合楽理念なんです。
私は今日、合楽便りが今月は遅れまして、今日持ってきましたから。読んで貰いましたら。神愛欄に生野さんが書いておられる。いつの場合でも、もう本当に素晴らしいですね、皆さんの神愛欄に書かれ、今度もあの生野さんのそれを聞かせて頂いて、本当に神愛欄にふさわしい信心の状態が書いてあります。信心されるようになって。主人が信心がない。丁度次々と不幸なことが起って参ります前に、大きな二頭、二匹の黒牛のお知らせを頂いてどういう事だろうかと、これは家のめぐりと言うから。
家のめぐりのお取り払いを頂かなくてはと、親先生から御理解頂いたら主人が事故で亡くなり、母が亡くなると言う様な事が御座いましたが。私共ではその世間で言う、不幸せ、不幸その事が社会に、合楽の信心が分りだした様に思うている事が書いてございますね。いうならばその時に、もうそれこそどれだけ頂いたか分らないお話の中に、難はみかげぞと教えられた御教えが、その時分の生野さんの心を捉え、難は難だけれども。
これがみかげになるんだと、一心に信心させて頂いておったら、子供達も信心になって今日のおかげを受けておると、言う事が書いてあるのをみましてですね。難は難でも、その難をみかげにしていけれる信心、それをなら常日頃です、合楽理念に基づくと、いつの間にか和賀心が育って行くと言われる。いつの間にか我情が取れ我欲が取れて来る、そこには我が身は神徳の中に生かされてあるという実感。その神愛の中に生かされておると言う事がとういう事か。
どういう事の場合であってもそれを有り難くひとつ、消化していくことが出来る。私が目がこんなに薄うなって、今まで晴眼であった時よりも、有り難いと思うておる様にね。この眼鏡に今まで克って、お礼を申し上げたことのよりも、もっともっと切実に眼鏡に対してお礼が言える。感謝の心が強なってくる。合楽理念の実験実証者になり、私しは有り難き、勿体なき、畏れ多きが与えられると思うです。皆さん氷の様である、雪の様であると言う中に今こそ、氷雪もこげんクール受けて。
合楽世界に住まれるチャンスを頂いているんだとして、その事を有り難く頂けれる信心を。これはこの難儀をどうして有り難く頂けれるかと、思いもします言いもしますけれども。実際はそうじゃないです。合楽理念を本当にこういう場合には理念ではこう説いてあるとか、それを実行する事です。しておる内に何時の間にか和賀心が生まれて来るんです。いつの間にか我が身は神徳の中に生かされてあると言う、有り難いものが生まれて、何処を切っても有難き、勿体なき、畏れ多きね。
これが四六時中いつでも、頂けるようになる社会を目指していくのが、金光大神の教えられた教えで有り道であります。此方の事を生神、生神というが皆んなもこの様なおかげが、一遍に生神になろう、また生神になろうなんて、とんでもないと思わずに。その一歩一歩を大切にして行くと言う事、そこから自分でも思いがけない心の状態が開けて参ります。そのおかげを、私しがね、金光教で言うおかげである。お取次ぎを頂いて、商売が繁盛した病気が治った。
なるほど有り難いですけれど、商売は反対に繁盛しない。病気をするその繁盛しない中にでも、その病気の中にでも、今まで繁盛しておった時よりも、いままで健康であった時よりも。有り難い。それはわが身は神徳の中に生かされている実感。分る事は誰でもわかるけども、それを実感として我が身は神徳の中に生かされてある、日々を過ごさせて頂きたい。ところがなかなか生身をもっておりますと、油断が出来ましたり、こうして月に4回のお月次祭ならもう、そういういわば自分の信心を。
まぁ何ともうしましょうかね。どんな正確な立派な時計であっても、それが狂うておったり、ネジが巻かれておったりでなかったり、ゆるんでおったんでは、正確な時間を示しません。私共は出来れば日々、例えば夜の御祈念などをする時には、一日をいよいよ反省してみて、あの時は有り難き、畏れ多き、勿体なきで受けられたか、いやぁまぁいうならば疎かな事であった。不思議に御祈念をさしてさ頂いておる時に、その事のお詫びやらお礼やらを申し上げさして頂いとりますと。
何かこれで今晩も安らいで休まして頂きます。良い目覚ましのおかげを頂けると言う様なものがここで頂けるでしょう。あれは時計を合わせて行く様なもんです。月に4回の月次祭にお参りをして、たんべんに合楽の言うならば標準時計に合わせて行く、これが大切です。そしていわゆるもう四六時中は合楽理念に没頭すると言う。合楽理念に元づくいわゆる生活を、いよいよ身に着けて行く内に何時の間にか、血肉になるその血肉が和賀心ともなりゃ、我が身は神徳の中に生かされてあり。
と言う様な事はすぐ分るでしょ。我が身には神徳のなかにある、成程神徳の中いかされていることは分るけれども、それを実感として感ずる時に、そこには暑さもなからなければ寒さもない、ただその暑さ寒さも有り難いと言うお礼を申し上げる以外ない。そこにいうならば氷雪門の入門を許されると言うこと、ね。生神への只々精進その手立てが合楽理念だと思います。もう実験実証していく以外にゃないです。いやぁあの人は、あんな生まれつき良い性格だから、そうではないこれは。
2、3日まえ若先生私の部屋に来て、まぁま話しておったが、甘木の初代と言う方は、天地の大恩を、誰よりも深く広く感じられて、それの教え子達に教えられて、あの大徳を受けられた。こりゃぁもう徹底した天地の大恩を説かれた。私は甘木の親先生と言う方は、信心のない前から随分けちんぼうだったち。はぁそりゃそうですよ、もう信心のない前から、あのしじみかいなんかのおつゆを食べると、皆んな身だけ食べてあぁ美味しかったちゅうけど、あのしじみ貝の貝をまたしゃぶりょんなさった。
塩気がついとるけん勿体無い、にゃやっぱりそうじゃろと私は思います。いうならばあれがもし信心がなかったら。安武松太郎っちゃけちんぼでと言うたでしょうけれども。それが信心によって生かされる時に、天地の親神様と交流されることになった、天地の親神様の御物を御物として尊ばれ、大切にされて、それこそ枯れ葉枯れ枝一枚1本んでも、天地の親神様の御物でないものはないと悟られた。
これは私の事なんだけど、私も大体商売人を目指しとったから、商売では人後に落ちない修行もしたし、と思うておったけれどももうとにかくふうたらぬくい。人間が嫌といいきらん、自分でも思うとった、はぁあもう自分のこげんふたらぬくいと思うけど、しいきらんと思よったけれども、成程儲けだしもきらなかった、ところがそのふうたらぬくさ、嫌と言いきらないというその性分が一致、神様と合い対する時に、神様がどういう無理を言われても、どういう可笑しいと思う様な事を言われても。
それを尊活に受け抜けれたと言うのは、私しのふうたらぬくさだったとこう思うです。というてなら若先生と話した事ですが。誰でもその人の真似って言う事はなかなか出来ん。それぞれ頂いておる、まぁ長所欠点がありますけれど、その欠点と思うておるその事が、信心によるときに意外な力を発揮するのです。ですから必ずしも誰かれの真似ということいりませんから、それぞれの頂いておる性格いよいよ、合楽理念にもとづいてまいりますときにです。答えはわが身は神徳の中に生かされてある。
どういう事の中にも入って行けれるように、合楽理念はといてありますね。ですからそれを実験して、そして日々実証の中にいよいよ、有難き勿体無き、畏れ多き。どこを切っても有り難いがでて来る様なおかげを頂いて。氷雪門に入らしてもらい、合楽をほんとうの合楽世界に住まわせて頂けれるおかげね。金光教の信者、信奉者の全てが生き甲斐を、生神を目指すと言う事が金光様に信心だとこういわれておりますが。
なら生神を目指す手立てをね。私共今迄ききませんでした。それを合楽では、私しが実験し実証して、それはおかげを受ける。安気安穏と言うだけでなくて。それとは反対の、普通で言うなら不安でたまらん、心配でたまらん普通で言うなら苦しい。そう難儀の中にあっても、言うなら健康であった時よりも、不健康になっていよいよその有り難さ、いよいよ神愛を悟らして頂いて。
あれを買えと言う答えが出て来る手立てが、合楽理念ですから。どうでも。どうでもこうでも。これを日々の生活の中にスンナリと頂いて、一日を締め括らし頂く時に、それでも凡夫の事で会い分らず。どこにお粗末ご無礼があるやら分らん、そこをこの皆さん時計を合わせて行くように、合せて。日々私し最近私しがもう日々が大変充実したした日々である様に思うんです。
今まではこんなに充実した日々うを過ごすことが出来なかったように思う。なるほど御結界に奉仕しとる時には充実おかげで、けれども下がったらもう何かこう閑散と、なんか関さんな感じでしたけれど。いまはおかげを頂いてほんとに日々を成就した、有り難い、勿体ない、畏れ多きのそれでも尚且つ最後の御祈念の時には、やっぱり遭わせておかなければならないところに気付かせて貰うそういう、お互い日々でありたいと思います。
どうぞ。